原稿

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「マトリックスの真実」「おカネの真実」「空前絶後の社会運動」「志の世界」「大震災の前線」「右傾化選挙の中で」
世の中の根本的な仕組み、神とは、支配とは、おカネとは、社会とは、人間とは、・・・根源から、そして、前線から、書きました。
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2012/09/23

『天皇祭祀を司った伯家神道』 抜粋①


1. 幕末の天皇

 幕末、一人の男が密かに京都御所を離れました。時の帝である孝明天皇の命を受けて身を隠すためでした。正確な日付は伝わっていませんが、慶応二年(一八六六年)の秋のことだったろうと思います。男は、小さな机を携えていました。その机は、帝が男と一緒に行った祭祀に使ったものでした。

その男の名前は、高濱清七郎といいます。白川伯王家最後の学頭であり、審神者(さにわ)でした。審神者は、古神道の世界では一般的な言葉ですが、祭祀の中で、神代(かみしろ)に、神託を授けて神意を解釈して伝える役割をする人をいいます。

 宮中から姿を消した清七郎には、追っ手がいたと伝えられています。幕末の京都、動乱の最中に、家族を伴いながらの逃避行は、困難を極めたに違いありません。高浜は、京都を離れて、愛媛の宇和島や、九州の阿蘇に潜伏しました。

高濱が京都を離れた背景はこうでした。

 長い日本の歴史の中で、天皇が歴史の表舞台に登場するのは、決して多いとは言えません。政治権力も富みももつことなく、宮中で密かに祭祀を行うという天皇のあり方が時代とともに定着していきました。天皇制が、世界に類例がないほど長期間維持されたのは、とりもなおさず、そうした天皇の役割にあったといえるでしょう。特に、長く平和な時代が続いた江戸時代には、それが顕著でした。朝廷全体の財政規模も、十万石にすぎませんでしたが、これは、全国各地の有力大名に比べても、はるかに小さいものです。ちょうど、明治維新から終戦にかけて、天皇家が世界でも指折りの資産家へと成長していったこととは対照的です。

 江戸時代、庶民にとって天皇とはどういう存在だったのかを端的に表す出来事があります。天明七年(一七八七年)六月七日、日本全土に深刻な飢饉が広がる最中、どこからか老人がひとりやってきて、御所の周りを歩き出しました。すると、徐々に人が集まりだし、数は瞬く間にふえていきました。わずか三日後には、歩く人の数が一万人に達し、十日後には、七万人まで膨れ上がります。この「御千度」は、その後徐々に、数が減っていったものの、三ヶ月経っても、完全にはなくならなかったといいます。御所をまわった人々は、南門の前で立ち止まり、銭を投げ入れて、真北の紫宸殿に向かって手を合わせました。

 こうした天皇のあり方の中で、江戸時代最後の天皇である孝明天皇の存在は、まさに異彩を放っています。

嘉永六年(一八五三年)、黒船が到来します。この時、孝明天皇は、満二二歳。これは、即位してから七年目の出来事でした。鎌倉時代の元寇から数えれば、およそ六百年ぶりに到来した国家存亡の危機といえます。
その翌年の三月、ペリーは予告どおり再び日本を訪れ、日米和親条約の締結にこぎつけます。幕府は、自らの判断で調印に応じ、四月に、朝廷に対して事後報告します。国防体制が不備なのでやむを得ず条約を調印したが、漂流民の保護や、外国船に対して燃料や食料の補給をするだけだという説明でした。朝廷内では不満もくすぶりましたが、結局、条約締結を容認し、「神州の瑕瑾(かきん)」なきようにと指示をします。これは、神の国に傷が付かないようにという意味です。

安政三年(一八五六年)七月、和親条約に基づいて、アメリカ駐日総領事ハリスが下田に着任しますが、早速、九月には通商条約の締結を幕府に提案します。この提案に対して、軍事力では勝てないと判断した幕府は、あっさりと交渉に、応じて翌年暮れには、条約交渉が妥結してしまいます。

ここに来て、天皇は、敢然と条約締結に反対の意向を示すことになります。天皇は、安政五年一月に、関白に宛てた書状の中で次のように述べています。

私の代よりかのうの儀に相成りては、後々までの恥の恥に候らわんや、それに付いては伊勢始めのところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無きに至り候あいだ、誠に心配仕り候 (『孝明天皇記』)

この天皇の意志に導かれるように、全国各地、朝廷内でも尊王攘夷運動が起こり、国内は騒然となっていきます。ただ、帝は、外国を追い出すという攘夷については、一貫して主張しましたが、尊王、つまり、天皇が政治の実験をもつということについては、終始否定的で、徳川幕府に政治を委ねる「大政委任」の方針は最後まで変わることがありませんでした。帝は、「皇国一和いたし、万民一同一心に相成り、相ともに攘夷の一事に決し候ようにいたしたき所存」と述べ、公武合体を推進しました。

孝明天皇こそ通商条約締結の最大の障害であると見抜いた欧米列強は、帝のお膝元で、軍事的な威圧行動に出ます。慶応元年(一八六五年)九月、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四カ国の代表団を乗せた連合艦隊が、兵庫の開港、条約勅許交渉のために兵庫沖に来航しました。まさに一触即発の状況下、十月には、とうとう条約を認める勅書が朝廷から出されることになります。国内も、列強に切り崩されるように、「尊皇攘夷」という掛け声は、いつの間にか「開国倒幕」へとすりかえられていきました。
この時期、長州藩では、高杉晋作らが挙兵してクーデターを起こし、長州で倒幕派政権を樹立します。そして、列強の支援を受けて最新鋭の軍備を整え、軍事的な優位を確立します。
慶応二年(一八六六年)六月、孝明天皇の義弟でもある十四代将軍徳川家茂が第二次長州征伐を行いますが、戦いに敗れ、翌月、将軍は、満二十歳の若さで、急死します。
このような失意の状況の中で、この年の十二月、孝明天皇は、不慮の死を遂げます。帝も三五歳の若さでした。死の直前、帝は、天然痘を患いながらも順調に回復に向かっていました。そうした中で、突如容態が悪化し、帰らぬ人となります。『孝明天皇記』によると、「御九穴より御脱血」「顔面の紫の斑点、吐血、脱血」という状態でした。これは、天然痘の症状ではありません。さらに、帝の死は四日間、隠されました。こうした状況から、当初から暗殺説はささやかれていました。また、明治維新にとって、帝が急死したことは、義弟の将軍と同様に、あまりにもタイミングが良いものといえます。

帝の死からおよそ一年後、慶応四年一月三日の夕刻に、京都の鳥羽・伏見で、幕府軍と薩長軍が衝突します。戦いは、京都御所からわずか五キロあまりの場所で行われました。そして、戦いの三日目、一月五日に、朝廷は、薩長軍に錦旗を渡し、勝敗が決します。まさにこの日が歴史の転換点だったといえますが、この日、戦火の中で、御所で何があったのかは、究明される必要があるでしょう。

この年の九月八日に元号が明治に改められ、二〇日に、明治天皇は、京都を離れ、翌十月一三日に江戸城に入城、ここを東京城と改名し、正式な布告もないまま遷都が行われました。

そもそも歴史とは、その時の権力者によって、自分の権力を正当化する為に書かれるものです。そのため、明治維新は、この国の行く末を案じる地方の下級武士達が、命をなげうつことによって成し遂げられたという美談として語られる一方で、孝明天皇は、時代の流れについていけなかった古い天皇として描かれがちです。

今、グローバリゼーションが際限なく進んで行く中で、普通の人の生活が脅かされる時代になってしまいました。空虚な拝金主義だけが蔓延し、経済格差はどんどん開きながら固定化され、無力感と生活苦が社会に広がっていってます。政治はまったくの無力で、グローバリストの思うがままに政策が推進されてゆきます。一体、この国はいつからこうなってしまったんだろうと歴史をさかのぼってゆくと、最後までグローバリズムに抵抗し、非業の死を遂げた孤高の天皇の存在に気付きます。

聡明な帝は、この国の行く末を見抜いていたのではなでしょうか。万策尽きて、自らの運命まで悟る中で、帝はこの国の一番大事なものを守るために隠したに違いありません。いつの日か「神州の瑕瑾」が取り除かれることを願って。