原稿

原稿

「マトリックスの真実」「おカネの真実」「空前絶後の社会運動」「志の世界」「大震災の前線」「右傾化選挙の中で」
世の中の根本的な仕組み、神とは、支配とは、おカネとは、社会とは、人間とは、・・・根源から、そして、前線から、書きました。
読んで面白いと思った方は、どんどん転送やコピー配布をして頂ければ幸いです。


2013/04/16

『逝きし世の面影』抜粋③

欧米人観察者の眼には、日本人はいたって宗教心の薄い民族にみえた。一八九五(安政六)年、江戸を訪れたヴィシェスラフツォフは言う。「日本人はまるで気晴らしか何かするように祭日を大規模に祝うのであるが、宗教そのものにはいたって無関心で、宗教は民衆の精神的欲求を満足させるものとしては少しも作用していない。それに反して迷信は非常に広く普及していて、お守りとか何かの象徴を住居その他につけるのがごく普通になっている。病魔を遠ざけるために家の扉に蟹を釘で止めたりするかと思うと、好運の日、不運の日があって、船乗りは暦でどの方角を避けるべきか前もって調べた上でないと港を離れない。寺社には老女と子供しかおらず、老女が祈っている間、子供の方はお祈りや念仏が唱えられているというのに、大声をあげて遊び回っている」。

... ベルクによれば「教養ある日本人は、本当は仏教とその僧侶を軽蔑している。・・・・・・それは、下層階級と同じように僧侶のばかばかしいいかさま説法の対象となるのは、威信を下げると彼らが思っているからである」。ハリスは一八五七年五月の日記に書く。「特別な宗教的参会を私はなにも見ない。僧侶や神宮、寺院、神社、像などのひじょうに多い国でありながら、日本ぐらい宗教上の問題に大いに無関心な国にいたことはないと、私は言わなければならない。この国の上層階級の者は、実際はみな無神論者であると私は信ずる」。

一八七一(明治四)年来日したヒューブナーは池上本門寺を訪れ、その建築の優美に感動したが、付添いの政府役人は「煙管を口にしたまま境内にずかずか入り込み、笑ったり喋ったり、大声で僧侶や仏をからかったり」していた。
「宗教心は消え失せかけている。朝晩、日の出と日の入りに家を出て太陽に平伏するのは、もう老婆しかいないのだ。・・・・・・宗教行事や迷信は腐るほどあるのだが、上流階級や知識人階級では、信仰心も宗教心も全く欠如している。・・・・・・私はこの国の有力者たちに信仰を持っているかどうか幾度も尋ねてみた。するといつも判で押したように、彼らは笑いながら、そんなことは馬鹿らしいと答えるのだ」。

カッテンディーケも「日本人ほど寛容心の大きな国民は何処にもない」と感じた。「もし日本人が、歴史上キリスト教徒のことについて何も知らないならば、彼らは平気で日本の神様の傍らにキリストの像を祭ったであろうと私は信ずる」。スミス主教は長崎滞在中、崇福寺に寄宿したのだが、スミスがもっと広い空間がほしいというと、住職はいともあっさり隣接した仏間から仏像を撤去してくれた

全国を通じてどんな僻地山間にも見受けられる厖大な数の自社と住民の関係、とくにその祭礼のありかたを一見したとき、彼らの喉を突いて出たのは「日本では宗教は娯楽だ」という叫びだった。オールコックは言う。「宗教はどんな形態にせよ、国民の生活にあまり入りこんでおらず、上層の教養ある階級は多かれ少なかれ懐疑的で冷淡である。彼らの宗教儀式や寺院が大衆的な娯楽と混じりあい、それを助長するようにされている奇妙なやりかたこそ、私の確信を裏づける証拠のひとつである。寺院の境内では芝居が演じられ、また射的場や市や茶屋が設けられ、花の展示、珍獣の見せ物、ベーカー街のマダム・タッソー館のような人形の展示が行われる。こういった雑多な寄せ集めは、敬虔な感情や真面目な信仰とほとんど両立しがたい」。もろん彼は浅草のことを言っているのだ。バードはもっと簡潔に断定する。「私の知る限り、日本人は最も非宗教的な国民だ。巡礼はピクニックだし、宗教的祭礼は市である」。

『逝きし世の面影』抜粋②

リンダウがいうように、日本の女に裸に対する羞恥心が薄いのは、彼女らが恥知らずということではなかった。そのことをよく理解したのは、何ごとにつけ日本の事象に讃嘆を惜しまなかったギメである。彼はいう。「無作法を意識せず、ショッキングであることを知らない、罪以前のイヴたちが相手にされていたのだ。そこで紳士たちの好奇心にかられたまなざしと、(外国人の)レディたちのおびえた叫び声が、今まで知られていなかった罪を明かしているのである。私ははっきりと言う。羞恥心は一つの悪習である、と。日本人はそれを持っていなかった。私たちがそれを彼らに与えるのだ」。

羞恥心とは、ルソーが正当に言っているように『社会制度』なのである。
...
徳川期の日本人は、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していなかった。それはキリスト教文化との決定的な違いである。もちろん、人間の肉体ことに女性のそれは強力な性的表象でありうる。久米の仙人が川で洗濯している女のふくらはぎを見て天から墜落したという説話をもつ日本人は、もとよりそのことを知っていた。だがそれは一種の笑話であった。そこで強調されているのは罪ではなく、女というものの魅力だった。徳川期の文化は女のからだの魅力を抑圧することはせず、むしろそれを開放した。だからそれは、性的表象としてはかえって威力を失った。混浴と人前での裸体という習俗は、当時の日本人の淫猥さを示す徴しではなく、徳川期の社会がいかに開放的であり親和的であったかということの徴しとして読まれなければならない。

トロイ遺跡の発掘で名高いシュリーマンは、一八六五(慶応元)年、ひと月ばかり横浜・江戸に滞在したが、大半は先行文献の無断借用からなるその旅行記に、「あらゆる年齢の女たちが淫らな絵を見て大いに楽しんでいる」と記している。ティリーも長崎で同様の光景を目にしたらしい。「猥褻な絵本や版画はありふれている。若い女が当然のことのように、また何の嫌悪すべきこともないかのように、そういったものを買い求めるのは、ごくふつうの出来事である」。

日本人が春画をペリー艦隊の水兵に与えたり、ボートに投げ込んだりしたことは先述の通りだが、艦隊所属の一大尉の記録によると、測量に従事しているボートに対して、集まった住民は「上陸するように手招きし、まごうかたない身ぶりをして、われわれを女たちと交わらせようと誘い」、しかも一人の女は「着物をまくしあげて身体をみせつけるようなことまであえてした」という。これは漁村などではよく知られた性的からかいにすぎないと思われるが、アメリカ人たちが真に受けて仰天したのも無理はないところだ。

ヴェルナーは述べている。「わたしが日本人の精神生活について知りえたところによれば、愛情が結婚の動機になることはまったくないか、あるいはめったにはない。そこでしばしば主婦や娘にとって、愛情とは未知の感情であるかのような印象を受ける。わたしはたしかに両親が子どもたちを愛撫し、また子供たちが両親になついている光景を見てきたが、夫婦が愛し合っている様子を一度も見たことがない。神奈川や長崎で長年日本女性と夫婦生活をし、この問題について判断を下しうるヨーロッパ人たちも、日本女性は言葉の高貴な意味における愛をまったく知らないと考えている」。
たしかに日本人は西欧的な愛、「言葉の高貴な意味における愛」を知らなかった。ヴェルナーのいうように、「性愛が高貴な刺激、洗練された感情をもたらすのは、教育、高度の教養、立法ならびに宗教の結果である」。一言でいうならキリスト教文化の結果である。

ポンペも遊女は二十五歳になると「尊敬すべき婦人としてもとの社会に復帰する」と言っている。「彼女らが恵まれた結婚をすることも珍しくはない」。遊女屋は「公認された公開されたものであるから」、遊女は社会の軽蔑の対象にはらなない。「日本人は夫婦以外のルーズな性行為を悪事とは思っていない」上に、彼女らは貧しい親を救うために子供の頃売られたのである。「子供は両親の家を後にして喜んで出て行く。おいしいものが食べられ美しい着物が着られ、楽しい生活ができる寮制の学校にでも入るような気持で遊女屋に行く」。「この親子はいわば自分たちを運命の犠牲者と考えているのである。両親は遊女屋に自分の子を訪問し、逆に娘たちは外出日に両親のいる住居に行くのを最上の楽しみにしている。娘が病気にかかると、母親はすぐに看護に来て彼女を慰める」。

グリフィスは一八七一年の品川と吉原について次のように書く。「狭い道を進むと、きれいで明るくて、美しい立派な大きい家の前に出る。日本人の目にすばらしくうつり、外国人に魅力のあるこれらの建物は、一般市民の住居のそばにあって田舎家の隣の宮殿のように見えるが、その中でどんなことが行われているのか。そういう家が多数、道路に沿って並んでいる。品川は遊女の里であり、乱暴者、道楽者、泥棒ばかりか、この国の若者もよく行く所である。日本で最も立派な家は娼家のものである。政府認可の女郎屋は数エーカーの土地にわたってあるが、そこは首都で最も美しい場所である。東洋の輝き――街の神話――が現実になるのは、吉原の木戸に横木が置かれる時である」。

イザベラ・バードは伊勢山田を訪ねて、外宮と内宮を結ぶ道が三マイルにわたって女郎屋を連ねていることに苦痛すら覚えた。彼女が「この国では悪徳と宗教が同盟を結んでいるようにみえる」こと、「巡礼地の神社がほとんどつねに女郎屋で囲まれている」ことについて、突きこんだ考察を試みた形跡はない。巡礼地が女郎屋で囲まれているのは、むろん精進落としが慣習になっているからである。

『逝きし世の面影』からの抜粋①


 ハリスは一八五七(安政四)年十一月、オランダ以外の欧米外交代表として初めての江戸入りを果たすべく、下田の領事館を発った。東海道の神奈川宿をすぎると、見物人が増えてきた。その日の日記に彼は次のように記した。「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。―――これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であ...るように思われる」。
 カッティンディーケは言う。(略)
「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。(略) 家具といえば、彼らはほとんど何も持たない。一隅に小さなかまど、夜具を入れる引き戸つきの戸棚、小さな棚の上には飯や魚を盛る漆塗りの小皿が皆きちんと並べられている。これが小さな家の家財道具で、彼らはこれで充分に、公明正大に暮らしているのだ。ガラス張りの家に住むがごとく、何の隠しごとのない家に住むかぎり、何ひとつ欲しがらなかったあのローマ人のように―――隣人に隠すものなど何もないのだ」。
 オールコックは大名からその日暮らしの庶民に至る生活用具の簡素さを描写したあとで、「彼らの全生活に及んでいるように思えるこのスパルタ的な習慣の簡素さのなかには、称賛すべきなにものかがある」と述べている。初めは日本人の生活の簡便さに皮肉も言ってみたかった彼が、ここでは厳粛な口調に変わっていることに注意したい。しかも続けて彼はこう書く。「たしかに、これほど厳格であり、またこれほど広く一般に贅沢さが欠如していることは、すべての人びとにごくわずかな物で生活することを可能ならしめ、各人に行動の自主性を保障している」。