原稿

原稿

「マトリックスの真実」「おカネの真実」「空前絶後の社会運動」「志の世界」「大震災の前線」「右傾化選挙の中で」
世の中の根本的な仕組み、神とは、支配とは、おカネとは、社会とは、人間とは、・・・根源から、そして、前線から、書きました。
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2013/04/16

『逝きし世の面影』抜粋②

リンダウがいうように、日本の女に裸に対する羞恥心が薄いのは、彼女らが恥知らずということではなかった。そのことをよく理解したのは、何ごとにつけ日本の事象に讃嘆を惜しまなかったギメである。彼はいう。「無作法を意識せず、ショッキングであることを知らない、罪以前のイヴたちが相手にされていたのだ。そこで紳士たちの好奇心にかられたまなざしと、(外国人の)レディたちのおびえた叫び声が、今まで知られていなかった罪を明かしているのである。私ははっきりと言う。羞恥心は一つの悪習である、と。日本人はそれを持っていなかった。私たちがそれを彼らに与えるのだ」。

羞恥心とは、ルソーが正当に言っているように『社会制度』なのである。
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徳川期の日本人は、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していなかった。それはキリスト教文化との決定的な違いである。もちろん、人間の肉体ことに女性のそれは強力な性的表象でありうる。久米の仙人が川で洗濯している女のふくらはぎを見て天から墜落したという説話をもつ日本人は、もとよりそのことを知っていた。だがそれは一種の笑話であった。そこで強調されているのは罪ではなく、女というものの魅力だった。徳川期の文化は女のからだの魅力を抑圧することはせず、むしろそれを開放した。だからそれは、性的表象としてはかえって威力を失った。混浴と人前での裸体という習俗は、当時の日本人の淫猥さを示す徴しではなく、徳川期の社会がいかに開放的であり親和的であったかということの徴しとして読まれなければならない。

トロイ遺跡の発掘で名高いシュリーマンは、一八六五(慶応元)年、ひと月ばかり横浜・江戸に滞在したが、大半は先行文献の無断借用からなるその旅行記に、「あらゆる年齢の女たちが淫らな絵を見て大いに楽しんでいる」と記している。ティリーも長崎で同様の光景を目にしたらしい。「猥褻な絵本や版画はありふれている。若い女が当然のことのように、また何の嫌悪すべきこともないかのように、そういったものを買い求めるのは、ごくふつうの出来事である」。

日本人が春画をペリー艦隊の水兵に与えたり、ボートに投げ込んだりしたことは先述の通りだが、艦隊所属の一大尉の記録によると、測量に従事しているボートに対して、集まった住民は「上陸するように手招きし、まごうかたない身ぶりをして、われわれを女たちと交わらせようと誘い」、しかも一人の女は「着物をまくしあげて身体をみせつけるようなことまであえてした」という。これは漁村などではよく知られた性的からかいにすぎないと思われるが、アメリカ人たちが真に受けて仰天したのも無理はないところだ。

ヴェルナーは述べている。「わたしが日本人の精神生活について知りえたところによれば、愛情が結婚の動機になることはまったくないか、あるいはめったにはない。そこでしばしば主婦や娘にとって、愛情とは未知の感情であるかのような印象を受ける。わたしはたしかに両親が子どもたちを愛撫し、また子供たちが両親になついている光景を見てきたが、夫婦が愛し合っている様子を一度も見たことがない。神奈川や長崎で長年日本女性と夫婦生活をし、この問題について判断を下しうるヨーロッパ人たちも、日本女性は言葉の高貴な意味における愛をまったく知らないと考えている」。
たしかに日本人は西欧的な愛、「言葉の高貴な意味における愛」を知らなかった。ヴェルナーのいうように、「性愛が高貴な刺激、洗練された感情をもたらすのは、教育、高度の教養、立法ならびに宗教の結果である」。一言でいうならキリスト教文化の結果である。

ポンペも遊女は二十五歳になると「尊敬すべき婦人としてもとの社会に復帰する」と言っている。「彼女らが恵まれた結婚をすることも珍しくはない」。遊女屋は「公認された公開されたものであるから」、遊女は社会の軽蔑の対象にはらなない。「日本人は夫婦以外のルーズな性行為を悪事とは思っていない」上に、彼女らは貧しい親を救うために子供の頃売られたのである。「子供は両親の家を後にして喜んで出て行く。おいしいものが食べられ美しい着物が着られ、楽しい生活ができる寮制の学校にでも入るような気持で遊女屋に行く」。「この親子はいわば自分たちを運命の犠牲者と考えているのである。両親は遊女屋に自分の子を訪問し、逆に娘たちは外出日に両親のいる住居に行くのを最上の楽しみにしている。娘が病気にかかると、母親はすぐに看護に来て彼女を慰める」。

グリフィスは一八七一年の品川と吉原について次のように書く。「狭い道を進むと、きれいで明るくて、美しい立派な大きい家の前に出る。日本人の目にすばらしくうつり、外国人に魅力のあるこれらの建物は、一般市民の住居のそばにあって田舎家の隣の宮殿のように見えるが、その中でどんなことが行われているのか。そういう家が多数、道路に沿って並んでいる。品川は遊女の里であり、乱暴者、道楽者、泥棒ばかりか、この国の若者もよく行く所である。日本で最も立派な家は娼家のものである。政府認可の女郎屋は数エーカーの土地にわたってあるが、そこは首都で最も美しい場所である。東洋の輝き――街の神話――が現実になるのは、吉原の木戸に横木が置かれる時である」。

イザベラ・バードは伊勢山田を訪ねて、外宮と内宮を結ぶ道が三マイルにわたって女郎屋を連ねていることに苦痛すら覚えた。彼女が「この国では悪徳と宗教が同盟を結んでいるようにみえる」こと、「巡礼地の神社がほとんどつねに女郎屋で囲まれている」ことについて、突きこんだ考察を試みた形跡はない。巡礼地が女郎屋で囲まれているのは、むろん精進落としが慣習になっているからである。