報酬を与えるということは、人をコントロールすることに他なりません。
人間は、生まれつき豊かな好奇心があり、自分自身や周りの環境のことを詳しく知って、工夫を重ねてよりよいものを創りだそうとする性質をもっています。私たちは、自然状態にあると、世界を興味深く見つめながら、最大限の創意工夫を発揮して難しいことにチャレンジしだします。
しかし、報酬が与えられた途端、そうした性質を失ってしまいます。
単純に面白いからやっていたことでも、それに報酬が与えられるようになると、無報酬ではやる気にならなくなってしまいます。何か他の目的のための手段として提示されると、それだけで魅力が減少します。つまり、ある活動に対して報酬を支払うことは、その活動自体では、やるに値しないと言っていることになるのです。それは、報酬が大きいほど、評価が下がるのです。報酬を与えることは、人から大事なことへの興味を奪うことになるのです。
心理学的な研究によると、報酬による行動が長続きすることはなく、そのため業績が良くなることもありません。どちらかというと悪化させることの方が多いのです。そして、報酬は創造性を殺すことが証明されています。これは、仕事の種類や、報酬を与えるタイミング、対象年齢に関係なく、同じ効果をもたらします。報酬をもらったらよりよくできる仕事というのは、何ら工夫のいらない極度に単純な作業だけであり、それも、報酬によって多少量がたくさんできるようになるだけなのです。つまり、いい仕事に巡り合えていない人にとって、報酬は効果的と言えます。さらに、一度報酬によって人を動かすと、動かし続けるためには、その量を増やしていかなければならなくなります。
「これをすればあれをあげるよ」と言った途端、人の関心は「これ」ではなくて「あれ」に移ってしまいます。そして、報酬によって動かされると、私たちの視野は狭くなります。何か問題が起こった場合でも、その問題がなぜ起こったかを深く追求する必要はないのです。何故、子供が泣いているのか、なぜ宿題をやってこないのか、なぜ気が乗らない仕事ぶりなのかを考える必要はなくなり、ただ、買収か脅しで刺激を与えられるだけになります。報酬目当てに働くときは、それを得るのにちょうど必要なだけの仕事をするようになり、それ以上のことは決してしようとしません。単純で反覆的な行動パターンをとります。つまり、「報酬は探求の敵」なのです。報酬を目的に仕事をすると、仕事の成功ではなく、報酬を得ることの成功を目指してしまうのです。報酬が大きければ大きいほど、ますます安易な仕事が選ばれ、報酬が減ると、できるだけ仕事を減らそうとします。
仕事に報酬を与えることがもたらす本当の意味は、「いい仕事をしたら報酬をもらえる」ではなく、「ボスを喜ばせたら、ボスが認めた報酬をもらえる」なのです。だから、いい仕事をすることに関心が向かうことはなく、報酬をくれる人へ自分を売り込んだり、機嫌を取ったりすることに労力を費やすことになります。
罰もまた報酬と同じ効果をもたらします。報酬と罰は、対立するものではなく、同じコインの裏表にすぎません。期待したのに報酬がもらえないというのは、罰と同じ効果をもたらします。そして、コイン自体、ほとんど価値のないものなのです。
賞罰の働きは屈従をひきだすことであり、その点では効果的です。命令や規則に従わせることが目的なら買収も脅しも合理的だといえるのです。特に、人の行動をコントロールするには、コントロールする側に依存する状態におけば、とても簡単になります。依存状態にすると欠乏状態をつくることができます。そうすると少ない報酬で効果的にコントロールすることができるのです。報酬や罰は、人間が自然にはやらないような行動を引き出そうとするときに使われますが、それによって、なぜこの面白くないことをやらなければならないのか?という本質的な疑問を抱かせずに望む方向にコントロールできます。
これとは逆に、人の長所をのばしたり、自分で創意工夫をいかんなく発揮して質の高い仕事をしてもらうようにするには、報酬や罰は、まったく役に立たず、むしろ有害なのです。
私たちは、「自分は単なる歯車ではなく、より本質、根源的な存在であって、自分のすることは自分で決めたい」という基本的な欲求を持っていて、報酬は、その基本的な欲求を制限するので、本能的には避けたいものなのです。さらに、報酬をわざとしぼって、競争して勝たないと得られないようにすると、その仕事への興味は大きく減ってしまうのです。その上、報酬をもらうと、あとから、仕事自体の面白さに目覚めるチャンスを奪ってしまいます。
「これをすればあれをあげるよ」というのが考え方のすべてになってしまうと、報酬のないことはすべて無駄なことと見なすようになります。それは、生きることを楽しむことができなくなるということなのです。
自分を信じることができ、自分の人生を自分で決めることができる根拠が、完全に外からの報酬に依存してしまうと、私たちは精神的な健康を維持できなくなり、危機にさらされます。そうした人達は、落ちこみやすく、無力感を抱きやすく、物事がうまくいかないときは絶望的になります。それは、報酬を決めるのが、自分ではないので、誰かに依存しないと生きていけないと思っているからです。
賞罰によるコントロールの基本にあるものは、私たちはいつも利己心に支配される存在であり、報酬とその反対である罰を唯一の基準として合理的に行動するものだという考え方です。
しかし、これは決して「人の世の自然」ではありません。
私たちは、もともと報酬を基準にして行動する性質があるわけではありません。もともと、自然に興味を覚えたものに対する行為そのものを楽しむようにできていて、それはとても独創的な営みになります。「報酬を基準に行動する」ということは、生まれつきのものではなく、ずっと続くものでもありません。後から教え込まれたものであり、訓練の度合いによって捨てることもできるのです。
人が欲しいものを何かしてくれたらあげることにして、人をコントロールしようとすることこそ、今の社会が抱える一番大きな問題です。私たちは、何か条件を決めて与えるということをやめなければならないのです。
人間関係もまた、何かの目的のための手段と見なされると、その人も価値評価が下がってしまいます。
褒めることも報酬と似ています。褒めることも、褒められるより褒める側の利益になることが多いのです。褒めるのは相手の行動の変化を期待してのことですが、その変化は、結局、褒める側の利益になります。さらに、褒める人の方が偉いのだという位置付けが確認されてしまいます。そして、偉い人に褒められたからといっても、それが自分の能力への自信には必ずしもつながらないのです。よく褒める先生が教える子供たちは、頑張りがきかなくなるという結果があります。先生から褒められ続けるために、失敗しそうな難しいことを避けるようになるからです。そして、先生の望むことに依存していき、自分の自然な興味を失っていきます。やがて、先生の期待に添えないことを恐れて、精神的に不安定になります。褒めるという肯定的な判断の問題点は、それが肯定的だということではなく、判断だということなのです。
大事なのは、無条件に受け入れられることであり、何かにひもつかない助けなのです。特に、逆境にいる時に必要なのは、愛されているという感じばかりではなく、自分には力があるという感じ、自分の身の上に起こることについて選択ができ、発言権をもっているのだという感じです。私たちが必要としないのはコントロールされることであり、それは甘い言葉でコントロールされることも一緒なのです。