4. 神懸り
孝明天皇の時代と前後して、日本各地に神懸りがおこるようになります。
まずは、文化十一年(一八一四年)、黒住宗忠が、病を克服するために太陽を拝む中で、天照太神と一体となる「天命直授」という霊的体験をします。宗忠は、この体験をもとに、やがて布教活動にはいり黒住教を興しました。宗忠の死後、京都に宗忠神社が創建されますが、この宗忠神社は、孝明天皇が唯一勅願所に定めた神社でもあります。宗忠の高弟達の熱心な布教活動によって、時の関白だった九条尚忠や二条斉敬等が入信し、公家の間に広まっていきました。孝明天皇自身も熱心に信仰し、宗忠神社に、度々、祈祷を下命したといわれています。
また、天理教をつくった中山みきが、「おふでさき」という自動書記を始めたのは、明治二年です。当時、金光教の布教者だった出口なおに神示が降りたのは、明治二五年です。
明治になってから、高濱清七郎は、神道十三派といわれる諸団体と交流しました。その中でも、禊教は、創始者の井上正鐵が白川家の門徒として行法を学んでおり、明治期、教団形成の過程で、高濱は大きな影響を与えたと言われています。また、高濱は、近代神道霊学の祖と言われる本田親徳とも親交がありました。本田は、文政五年(一八二二年)、薩摩に生まれ、一七歳の時に、天皇の歴史を学んで深く感動して上京、平田篤胤等の門をたたきます。三五歳頃に高濱清七郎との交流があり、この時に、後に本田が確立した鎮魂帰神法、つまり神懸りの技に対して大きな影響を受けたと言われています。長澤雄楯は、安政五年(一八五八年)清水に生まれ、稲荷講の活動をしている中、明治一七年、二七歳の時に本田と出会い、鎮魂帰神法を伝授されます。長澤はやがて全国の神主の指導に当たるようになりますが、この弟子筋として、出口王仁三郎の他、三五教を興した中野與之助、神道天行居を興した友清歓真がいます。
出口王仁三郎こと上田喜三郎は、明治四年(一九七一年)に京都の亀岡で生まれます。長澤と同じように稲荷講の活動が原点になっており、明治二一年に本田と出会い、更に、明治三一年に出口なおと出会うことで、大本の活動が始まります。『霊界物語』の中に、長澤が審神者になって自分を招いたと書かれてあるように、これが、王仁三郎の霊的な出発点になっています。王仁三郎のもつ圧倒的なカリスマ性によって、戦前、大本は、最盛期に五百万人もの信者を擁する大教団に膨れ上がり、各界を巻き込んだ巨大勢力となりました。大本の教えを端的に言うと、「宇宙の三千世界、神界、幽界、現界の立替え、立直しのために身魂を磨きなさい」というもので、やがて国家体制を脅かす存在とみなされて、徹底的な弾圧を受けることになります。特に一九三五年の二度目の弾圧の時には、一六人もの人が獄死する壮絶なものでしたが、この弾圧の中で、大本から分かれて、神政龍神会を興した矢野祐太郎氏も検挙され、取調べの最中に死んでいます。こうした一連の事件は、高橋和巳の小説「邪宗門」や、松本清張の遺作である「神々の乱心」のモデルになっています。大本は、教団本部の建物まで破壊され、壊滅的な打撃を受けますが、この流れの中から、世界救世教の岡田茂吉、生長の家の谷口雅春、世界真光文明教団の岡田光玉、白光真宏会の五井昌久、日本心霊学協会の浅野和三郎、若林耕七、荒深道齊、宇佐美景堂、佐藤郷彦、黒田みのる等が輩出されてゆきます。