原稿

原稿

「マトリックスの真実」「おカネの真実」「空前絶後の社会運動」「志の世界」「大震災の前線」「右傾化選挙の中で」
世の中の根本的な仕組み、神とは、支配とは、おカネとは、社会とは、人間とは、・・・根源から、そして、前線から、書きました。
読んで面白いと思った方は、どんどん転送やコピー配布をして頂ければ幸いです。


2011/08/15

8月15日

支配するためには、多すぎる人間を減らさないといけません。
だから、不況をつくって、対立をあおって、失業者を戦場に送りこみます。
このあきれるほど単純な手口に、いい加減、みんなが気付かないといけません。
感情ゲームにどっぷりとつかって、またしても、してやられている場合じゃないんです。
特に、死と恐怖を結びつけ、死を特別なものとしてまつりあげることで、私たちは、自然な判断力を失って、コントロールされてしまいます。
そもそも死は、日常であって、「恐るべきもの、特別なもの」である理由は、ないのです。
そして、もう二度と会えない身近な人だって、本当は、あなたそのものなのです。

2011/08/10

空前絶後の社会運動 その九 元原稿


政治の現実

 これは、講演ではときどき話していることですが、二〇〇四年一月の民主党の党大会で、当時も代表だった菅直人さんは、このように演説しました。
「私たちが目指すべき社会のモデルは、江戸時代にあると言えます。あの時代は、食料を自給し、地方分権が確立していて、環境とも調和した社会でした。そして、これから最も大事なのは、農業なのです。」

 この党大会の後、同じホテルで新人研修が行われ、その後の懇親会は、中華テーブルの形式で行われました。始まる直前まで私の隣の席は空いていたのですが、その時、入口から会場に入ってきて、「ここいい?」と、私に声を掛けたのが菅さんだったのです。何度かあいさつ程度の会話をしたことはありましたが、じっくりと話し込めたのは、これが初めてでした。
「いやぁ、今日の演説は、本当に素晴らしかったです。私の地元は、農業地帯で、大潟村という米づくりで有名なところもあります。」
「実は、そこの話しを最近聴いて、行きたいと思っていたんだよ。すぐに行く、すぐ。」

そして、菅さんは、わずか四日後に本当に秋田を訪れ、それから、小泉首相との党首討論ふくめ、しばらく農業の話しばかりしていました。

同じ懇親会場で、仙谷由人さんとも少し話したのですが、その時、仙谷さんも、こういいました。
「菅の今日の演説は本当に素晴らしかった。事前にじっくり俺と話しこんだのが効いとったな。」

こうした社会感は、出口王仁三郎が描いたみろくの世とさして変わらないと言えます。

でも、彼らは、政権に近づくにつれて、消費税増税やTPPなど、グローバリゼーションに加担する真逆の政策ばかりを推進していきました。最近も、日本の貧困率が過去最悪を記録したという報道がありましたが、こうした政策が続いた結果として起こる現象です。

何度も繰り返しますが、日銀ではなく、政府が直接通貨を発行して、国民の最低所得を保証してしまえば、財政、景気も、何ら問題がなくなります。そして、食料もエネルギーも自給することは可能です。

 支配と権力の本質

 二〇〇五年九月一一日、郵政選挙で敗北した後、少ししてから、秋田の温泉に菅さん夫妻が遊びに来ました。気心の許せる人達の集まりだったので、宴席も、楽しいものでしたが、そこは、私にとっては、決意表明の場でもありました。
「三度目も出ます。たとえ公認もらえなくて、無所属でも。」
菅さんの前で、私はそう言いました。

それからは、本当に茨の道でした。公認がないため、収入もない、仕事にも就けない状態が続きます。それでも政治を続けるために、私は、起業をしました。もともとおカネに執着できない性格なので、事業にはまったく向かない人間だと自分で思っていましたが、他に方法はありませんでした。

さらに、党からの公認なしで、出馬するというのは、除名を意味しました。その出馬の記者会見は、私の人生の中で、一番勇気を必要とするものでした。会見では、
「失礼ですが、供託金は払えるのですか?」と若い記者から質問をされました。実際、その段階で、おカネの目途はなかったのです。

何も報いがないことが分かっているのに、すべてを投げうって、最後の選挙に出ました。すべて終わった時、はっきりと分かったことがひとつだけありました。自分は、ずっと権力と闘い続けてきたけど、権力っていうのは、自分の中にある恐怖心以外の何物でもないということでした。この恐怖心の壁を破り切った時、明らかに世界が違って見えました。

今の政権の中枢にいる人達が、権力にしがみつくのも、真に民のための政治が行えないのも、結局は、自分の恐れという感情から、抜け出せないことが原因なのです。

食とエネルギー

菅さんが大潟村に来てから七年経ちました。私は、地震のあった三月一一日に大潟村に到着し、自分で米づくりを始めました。職業や身分に関係なく、すべての人が自分の食べものをつくることを、みろくの世の社会基盤とすべきだと王仁三郎は考えていましたが、ようやく私もそれを始めることができました。私は、もともと農家出身ですが、家は子供の頃に離農しているので、まったくの素人です。技術な部分は、師匠である石山範夫さんや、田んぼをもっている従兄に委ねざるを得ないのですが、私は、しっかりと労働力になるべく、田植えの後から、草取りを続けました。農薬はもちろん、有機肥料も含めて一切の肥料を使わない自然栽培にしたので、およそ一か月半の草取り作業は、本当にきつい仕事でしたが、何とか無事に終えることができました。すくすくと育つ稲をみているとふつふつと幸せな気持ちが沸いてきます。農業を始めた大きな理由は、若者の働く環境がどんどん悪くなる中で、何とか彼らにやりがいのある仕事をつくりたいということでした。千葉のくりもとで自然野菜をつくっている大庭裕之さんも、秋田に研修に来た近藤嵩さんも、誰もが感心するほど、よく働きます。若者が誇りと生きがいをもって農業に取り組む姿は、本当に感動的です。こうした志ある若者が核となって、だれもが安心して、働いて食べて眠れるコミュニティが育っていき、さらに、地域の食をまかなって行くことができれば、それがまさに、「みろくの世のひな型」と言えると思います。

もちろん、今回の原発事故をきっかけに、エネルギーの自給も真剣に目指すべきです。もともと原発の本質は、プルトニウム製造工場であり、自爆装置以外の何物でもありません。そもそも自然エネルギーの量は、無尽蔵と言えるほど膨大にあり、それを電気に変換する技術も整っているので、自然エネルギーだけで、今必要な電力をすべて賄うことに、何ら問題はありません。もちろん、原発をやめたら、経済が悪くなるということも、あり得ないのです。

「恐れ」をすてて、どんどん行動に移していきましょう。その方が、楽で、楽しいです。

2011/08/06

「米(こめ)本位制」と「政府通貨の発行」


 以下、2010年1月4日に、船井幸雄ドットコムに掲載された私の文章です。このタイミングで再読して欲しいと思って、コピーさせて頂きます。


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私の大好きな人に佐々木重人君がいます。まだ40才です。
いまは会社の社長(NS乳酸菌の製造)ですが、彼は東京外大を出て大手商社に入り、そこから一時、船井総研に来て、経営の勉強をしていました。
衆院選挙にも立候補したことのある好男子で、『天皇祭祀を司っていた伯家神道』(08年10月31日 徳間書店刊)などの編著もあります。
彼は、「これからの日本」を憂えており、以下は、「どうすればよいか?」という私の質問に答えてくれた解答論文です。
秋田の県北出身で、よく勉強もするし経営力もある佐々木君の提言をそのまま紹介しますので、ぜひ皆さまも彼の言をお読みください。


【佐々木重人さん論文】
 先日、友人にお誘いいただいて、メキキの会を主宰する出口光さんにお会いする機会がありました。その際、名刺代わりにと思い、近著『金融崩壊後の世界』(文芸社、安部芳裕氏との共著)を差し上げたら、一週間ほどして、出口さんよりお電話を頂きました。出口さんは、サムライ・ソーシャル・ネットワークというSNSを運営していますが、そこで、本格的に地域通貨を導入したいという相談でした。出口さんは、お渡しした本をきっかけに共著者である安部芳裕さんの著作を短期間ですべて読み、とりわけ、強い興味を覚えたとのことでした。
 
 1999年にNHKで放映された「エンデの遺言」という番組は、特に市民活動をする人達の間でセンセーションを巻き起こしました。この番組の中で、ドイツのファンタジー作家のミヒャエル・エンデは、忘れられた経済学者・シルビオ・ゲゼルを紹介します。

 「すべての自然物が、摩耗、劣化してなくなっていくにもかかわらず、お金だけは、時間とともに自己増殖を続けていく。これが、現代社会の問題の根源にある」と彼は言っています。

 20世紀初頭、ゲゼルは、こう考えて、時間と共に劣化する通貨を構想しました。やがて、ゲゼルの通貨は、第一次大戦後の経済的混乱の中で、オーストリアのヴェルグルという町で実践されました。ヴェルグルでは、失業対策として様々な公共事業をつくりましたが、その労働の対価として、「労働証明書」を発行しました。この労働証明書は、お金として流通できましたが、毎月、スタンプを購入して張らないと使えないようにして、時間とともに価値が減じる性質をもたせたのです。時間が経つと目減りするお金は、通常のお金の十倍以上のスピードで流通するようになりました。すると、町の経済は見る見るうちに回復し、あっという間に、完全雇用が達成されたのです。ヴェルグルの成功を見て、近隣の自治体も次々とこの通貨の導入を検討しました。ところが、通貨の発行は、中央銀行の専権事項であるとして、自治体による通貨の発行は、全面的に禁止されてしまったのです。ヴェルグルの町は再び失業者であふれてしまいました。

 紙幣は、そもそも金を保管した際に発行する預かり証でした。やがて、金は、倉庫から滅多に引き出されず、預かり証がお金として流通するようになると、預かり業者は、金の保管量を超えて預かり証を発行し、金利をとってそれを貸し付けるようになりました。これが近代銀行制度の始まりと言われています。私たちは、誰かが働いて貯めたお金を預けたから銀行があると思いがちですが、実際はそうではありません。
 お金は、無から生まれ、借金として社会に流通していきます。金利分のお金はどこにもないので、借金返済のために、お金の奪い合いが始まり、激しい競争の中で、多くの人が返済不能となり、通貨の発行元にすべての富が集まっていきます。

 「私に通貨発行権を与えなさい。そうすれば、誰が法律を作ろうとも大した問題ではない」と。
 これは、ロスチャイルド家の創始者、マイヤー・アムシュル・ロスチャイルドの言葉だと言われています。
 17世紀末に生まれたイングランド銀行が最初の中央銀行ですが、これは、長引くフランスとの戦費で財政がひっ迫していたイングランド政府の弱みに付け込むような形で、銀行家達が、国の経済と財政を支配するためにつくったものでした。それから、世界各国に中央銀行が作られていきます。
 特に、アメリカ合衆国では、通貨発行権をめぐる政治家と銀行家の壮絶な争いがつづきました。銀行家達に対抗して、独自の政府紙幣を発行したリンカーン、そして、ケネディは、暗殺されました。それから、新たに政府紙幣を発行する試みは行われていません。

 話は変わりますが、クリフォード・ヒュー・ダグラスは、20世紀初頭、ベーシックインカムという概念を提唱します。ダグラスは考えました。そもそも商品の価格は、労働力とその他の費用から成り立ちますが、購買力は、労働力からしか生まれないので、社会全体としては、常に購買力が不足し、結果として、常に行き過ぎた競争を強いられます。さらに、生産の自動化が進むにつれて、この流れに拍車がかかります。
 この社会の根本的な問題を解決するには、雇用と所得をある程度切り離して、人々の購買力を保証する必要があるとダグラスは提唱したのです。


 例えば、すべての国民に、月額8万円のベーシックインカムを支給するには、約120兆円の予算が必要です。これを政府紙幣で賄えば、国民の生活は守られ、財政破綻を回避し、景気も浮揚させることができます。

 現在、日本のGDPは、約500兆円ですが、潜在的なGDP、国民全体の生産能力は、800~1,000兆円あると推計されています。この差は、デフレギャップと言われますが、この範囲内で、通貨供給量が増えても、急激なインフレが起こることはありません。

 政権交代をして役人の無駄遣いを撲滅すると言って新政府が誕生しましたが、ほとんど成果をあげられそうになく、これから、財政破綻と消費税の大増税がやってくることは、時間の問題といった状況です。そして、景気はさらに悪化することはだれもが認めていることで、恐慌の後に何がやってくるかは、歴史を振り返ってみれば明らかでしょう。

 今、政府紙幣を財源とするベーシックインカム制度の導入は、国民の生活と国家財政を守る唯一の政策と言っても過言ではありません。しかしリンカーンやケネディのように、命をかけて国民生活を守ろうとする政治家は、日本の国には、残念ながら、なかなか現れそうにありません。だから、一人でも多くの国民が、自分達の暮らしを守るために、お金の真実を知って、世論を作っていく必要があります。

 さて、「エンデの遺言」に触発されて、2000年ごろから、さまざまなところで地域通貨の試みがなされました。当時、その最前線で活躍していたのが安部さんで、デベロッパーに勤務していた私は、販売不振の首都圏郊外のニュータウンの活性化策として地域通貨に注目し、安部さんと交流がありました。最盛期には、日本に200以上の地域通貨がありました。しかし、様々なタイプのお金が試みられたものの、結局、お金として盛んに流通したものは、ほとんどなかったのです。

 「何故、地域通貨は、日本であまり流通しなかったんだろう?」
 会食の席で、出口さんが尋ねました。
 「うーん、突き詰めれば、その通貨で、食えないというか、生活が成り立たたなかったからじゃないかと思います。通貨を何で担保するのが一番いいのかというのには、いろいろ議論があるようで、たとえば主要穀物をバスケットにして、その合成価格を通貨の基本単位にするといったアイデアがあるようです。まあ、日本はシンプルに米でもいいと思いますけど」と私は答えました。

 ベルナルド・リエター氏は、著書『マネー』の中で、古代エジプトは、穀物を基準単位とするお金が流通している間は、繁栄を続けたものの、それが、ローマ人のお金、プラス利子がつくお金にとってかわられるに及んで繁栄が終わったことを紹介しています。

 米は、世界中の水の豊かな地域で主食として栽培されていますが、あらゆる穀物の中で、単位面積当たりの収穫量が一番多く、連作障害がないので何百年でも同じ場所で作り続けることができ、味も栄養価も一番よいようです。人間が生きるために、空気、水の次に必要なものは何でしょうという質問に対して、米と答えるのは、決して間違いではないでしょう。

 しかし、御存じのように、日本の農業は衰退の一途を辿り、現在、日本の食糧自給率は、40%あまり、農民の平均年齢は、70歳に達しようとしています。稲作農家の作業を時給に換算すると300円に満たないという試算もあります。世界の基軸通貨であるドルの崩壊が時間の問題であり、その後、貿易が円滑に行われるのかは不透明なので、国民の生存基盤が大きく揺らいでいると言えますが、こうした時にこそ、志ある若者が農業に参入し、消費者と直接繋がって食料を提供できれば、十分に採算があって、豊かな暮らしがおくれるようになるはずです。

 先日、船井総研時代の元同僚である山田浩太さん「農業ベンチャークラブ」を立ち上げるということで、その説明会に行ってきました。山田さんは8年前から循環型農業に注目し、全国の農家を歩いて研鑽を積んで、今では会社で軽トラックまで購入し、毎週、茨城県水戸市にある鯉淵学園という農業学校で循環型農業の研究を自ら行っているそうです。さらに、新規就農ウェブスクールという、インターネット上で農業を勉強できる場も提供しているというから驚きです。経営コンサルティング会社である船井総研がここまでやっているとは、すっかり感心してしまいました。本来、農家の後継ぎであった私が、山田さんのようなことができないのを申し訳なくなった次第です。山田さんの上司である船井総研の執行役員の菊池功さんは、セミナーの中でこう言いました。「これからは、景気はますます悪くなって、企業業績も落ち込んでいくでしょう。こういう状況の中でも社員の生活を守るには、突き詰めれば、食糧の企業内自給、そういうことも視野に入れていかなければならない時代です」と。船井総研の環境グループメンバー約30人は、昨年から、農業研修として毎週メンバーが順番に農場へ行き、農作業を行っているそうです。まさに、自社で企業内自給を実践し始めています。

 出口光さんの曾祖父である出口王仁三郎さんは、恐慌から戦争に突入していこうとする昭和初期に、「昭和神聖会」という運動をおこして、800万人もの賛同者を集めました。これは、日本史上空前絶後の社会運動だったと言えますが、日本政府は、これを徹底的に弾圧しました。その後、日本は戦争に突入していきます。

 王仁三郎さんが描いた「みろくの世」とは、「産土共同体」という小さなコミュニティで、自給し、全てが農業を営み、1日2~3時間の労働で豊かに暮らし、所有も、税金も、今の形の通貨もない世界のようです。いうまでもなく格差も戦争もない社会でした。それは、神と人が合一し、祭と政が一致した世界でもあります。もちろん、「みろくの世」とは、人が死んでから、神の審判によって行ける世界ではなく、生きているうちに自らの手でつくり上げるものであり、自然には、みろくの環境が最初から備わっています。人間は、唯一神によって作られた被造物であり、未来は、神が決めるものであり、人間は、いつも堕落して神を信じなくなり、結局、終末を迎えて破滅するという世界観とは、この考え方は大きく隔絶しています。

 出口光さんは言います。
 「豊かな幸せな社会を創ろうという想いは一人ひとりの心の奥底にある共通の想いです。人々がインターネット上で交流するソーシャルネットワークに地域通貨を組み合わせ、そこにいる人たちの天職が発展し、皆の幸せにつながるような社会基盤を創ることはできると思います」と。

 有意の人たちと共に、研究を重ねながら「みろくの世」つまり理想社会のひな形をぜひ造りたいと思っています(論文ここまで)。



私は「なるほど」と思って、この提言を読みました。実によくまとまっていますし、実現の可能性はあります。
実現するか否かは別にしても、おおいに考えさせられるレポートです。皆さまも、ぜひ真剣に御検討ください。
=以上=

2011/08/02

米づくりの常識がひっくりかえる


10日ほど前だったと思いますが、従兄から電話がありました。
「ううう。やっぱりイモチがついてきた。隣の人の農薬使った田んぼで広がり出してうつって来てしまった。どうすればいいんだろうか。前は、木酢液とか使ってたが、石山さんに聴いてみてくれ。」
とにかく、山間部の風通しがあんまりよくない田んぼは、いもち病にかかりやすく、一度かかったら、あっという間に広がって、大幅な減収になってしまうことを恐れています。それを聴いて、私も、ヤバイと思いました。

とりあえず、早速、師匠に電話したら、あっさりとこういいます。
「石山さん、やっぱり、イモチ、でてきてしまいました。どうすりゃいいですか?」
「ああ、そんなもの大丈夫だ。気にするな。あれは、気温が27度以上になったら、生きられなくなって、自然に消えていく。明日っから晴れるようだから、だまって、放っておけ。」

ところが、天気予報が外れて、イモチはじわじわと広がって行きます。また、従兄から電話です。
「どうすればいいかな?」
「天気予報は?」
「ようやく、明日からは、今度こそ、晴れるようだ。」
「やっぱり、それじゃあ放っておくしかないな。まぁ、信じてやってみよ。隠さないでしっかり説明する事が大事だから、病気の様子、ちゃんと写真にとって、メールで送ってくれ。」

それから、数日したら、また、電話がありました。
「うーーーん。凄い。本当に消えた。写真とろうと思って行ったが、稲がどんどん育って、イモチの跡が消えてしまって、分からなくなってしまって、結局、とれなかった。普通は、成長と一緒にイモチが、どんどん広がって行くんだが、自然栽培は、ぜんぜん違う。いったい、今までの考え方は何だったんだ?
注意して穂を調べると、やっぱり、コナギが生えているところは、よく育っていない。農薬使ってる頃は、コナギなんて、ほとんどなかったから分からなかったけど、確かに石山さんの言うとおりだ。来年は、このコナギ対策、とにかく徹底してやらなねば、だめだ。逆に、ヒエは、本当に、収量に影響ない。これは、本当にびっくりだ。今までの米づくりの考え方とまったく逆だ。」
「なるほどなぁ。すごいなぁ。結局、肥満が万病のもとみたいなもんで、肥料やらないと病気にならないってのは、やっぱり本当なんだよ。で、収量はどうなりそう?」
「今の穂の様子だと、普通の栽培から1割少ないくらいだと思う。まぁ、堅く見積もった方がいいから、67俵ぐらいだろう。去年の作は、酷かったけど、今年は悪くない。台風が行った後、オホーツク海の高気圧がつよくなっている。こうなると日本海側の作がよくなるんだ。」
「そりゃ、大成功っていえるレベルだな。」
「まあ、油断は禁物だが、今の穂の状態で、ほぼ、収量は決ると言っていい。」

という状況です。

ほんと、ハラハラドキドキな米づくりですが、どうやら・・・・素晴らしい結果になりそうです。

今から、収穫の時は、号泣すること、予約します。^^